相毎モコ

400字で書くことを心がけ

今至上主義におけるポピコーンと情事の

本日、とても良いことに気がついた。
朝起きてから布団を片付けることで日中の惰眠がなくなる、のである。当たり前かもしれないが。

自堕落な人間の休日は悲惨なものである。かつ、ガール・フレンド(あるいはボーイ・フレンド)や友人が近くにいないと悲惨は色を強める。
昼になる前くらいになんとなく起き、そのへんに落ちているそうめんや食パンをかじって適当に空腹を鎮め、隣の部屋や外から聞こえる楽しげな声を背中で聞き、テレビでモスラでも見ながら寝転がる。次に意識を戻した時にはカラスが鳴いていて、部屋の中が淡く暗い色彩に染まっており水槽の中にいるような気持になる、時計をみれば6時半。1日の4分の3くらいを夢半ば、みたいな感じの生活である。

これがガール・フレンド、友人がいるとすれば1日の4分の3くらいを生きることができるのではあるまいか。映画館に足を運び、洒落たレストランでガレットをつつき、大通公園とやらで鳩や人間の子供を見て「かわいいね」「そうね」とかなんとか言ったりできる。情事に耽り、恥じらいとエクスタシをシェアすることも可能だ。
友人が釣りが好きなら釣りに、山が好きなら山に、畜肉が好きなら牛角に、大通公園が好きなら大通公園に行くことができる。
はっきりいってそこに惰眠に時間を費やしている暇などない。

しかし、今そういう状況にない。ガールはいないし、気軽に連絡がとれる友人は少なになってしまった。ので、上のような4分の3の生き方ができぬ。因果なことであります。

なぜ自分にガールや友人が少なになったのかを考えた。布団かもしれないと思った。

敷いてその上に寝ていた布団をそのままにしておく。一言でいえば、やりっ放しということだ。やりっ放しがいかんのかな、と思った。
これはガールの場合を考えれば、たとえば映画館。映画にいけばポピコーンなどを買う。映画館側はポピコーンが映画にはつきもの、と考えているのでポピコーンを食べながら映画を鑑賞できるようにそれぞれの椅子にポピコーン置き場を設置している。そこにポピコーンを置くのであるが、肝心なのは去り際である。映画が終わったらみんな神妙な顔をして出口へと向かうが、空になったポピコーンの殻をその手に持っているか。もし持っていない場合は、ポピコーンの放置、つまりやりっ放しである。「映画、よかった。ポピコーン、よかった。ポピコーンの殻? 関係ねえよ、馬鹿野郎」と言っているのと結果的に同じである。今が楽しけりゃそれでいいじゃん、いいじゃん。というその精神の堕落具合がやりっ放しの核である。これがいかんのではないか。

また、情事の場合を考えれば、事が終わった後。情事は大別して3段階、前戯・行為・アフターサービスに分かれる。その比率としては個人差があるようだが(個人的調べ)、そのいずれも軽視できるものではなく、総合優勝を狙うのであればそれぞれをしかりと押さえる必要がある。中でも肝心なのは、やはり去り際・仕舞方である。事が終わったら男は女の中から出てくるが、その直後の男の行動はいかがなものか。もしすぐに立ち上がって煙草を吸ったり、寝たりしてしまったのなら、それはやりっ放しである。「固と柔の織りなし、よかった。抽送、よかった。アフターサービス? 関係ねえよ、馬鹿野郎」と言っているのとやはり同じである。ここにも刹那主義の堕落が明らかだ。

こういう例はあくまで例で、自分がポピコーンの放置やアフターサービスの怠慢をはかったことはないと記憶しているが、それらに見られる「今が楽しけりゃそれでいいじゃん」精神は布団の敷きっ放しに通ずるものがある。


そもそも「今が楽しけりゃそれでいいじゃん」という言葉は、今を大切にしてますよ、的な物言いをしている感じだが、考えてみればこの精神は今のことを考えていない。今、と口にするたびにその「今」はすでに瞬間的に過去のものとなっている。しかも今だ!とか言って行動することは、「今」と言った時からみれば未来のことである。つまり今という時間は過去でもあり未来でもある、だいたい今ってなに? みたいな曖昧なことになり、その曖昧なものを大切にするとはよくわからんことである。
結局、今至上主義は、めんどくさいことは考えたくないからとりあえず置いとこう、とにかくめんどくさいので欲望に忠実になろう、後のことは知らねえよ、という主張なのである。

どこからどう考えても、やはり今至上主義は布団の敷きっ放し、やりっ放しに通じていた。布団畳まないイコール今至上主義である。今至上主義は自分の欲望しか考えないため、他の人や物事が入り込む余地がない。
これで問題がはっきりした。布団を畳まないことで僕は今至上主義を主張し、これを主張するがゆえにガールや友人が少なになったのだろう。しかも布団畳まない主義だともれなく惰眠オプションもついてくるので、夢の中に生きる時間が多くなり、自然、現実世界との関わりが薄くなる。夢にガールや多くの友人はいない。彼ら彼女らは現実世界に生きている。

 

ということを朝起きて煙草を吸いながら考えた。布団を畳んだらその下にいろんなゴミがあらわになり、コロコロで掃除した。カーテンを開けると、外では名も知らぬおばあちゃんが朝顔に水を遣っている。惰眠もせず、醤油の出しっぱなしもなく、平和な土曜日を過ごした。
惰眠を貪っている場合ではない!
明日も布団をたたむことにする、明後日もその次の日も。
ガールや友人が多くなる確証はないけれども。