相毎モコ

400字で書くことを心がけ

観た パンク侍、斬られて候

過日。ある筋から映画の券をもらって、それは「パンク侍、斬られて候」の券だった。
町田康が昔に書いた本が原作。

私は町田康という作家がけっこう好きで、毎朝毎晩の地下鉄の中でデビュー作「くっすん大黒」を飽きるともなく読み続けている、というくらい好きだ。
思い出したが、けっこう、ではなく、かなり好きな作家である、町田康
なんで、この映画にはやや抵抗があった。本の世界を壊したくなかったから、見ればきっと壊れてしまうから、頭脳にある活字のパンク侍の世界にひびを入れたくなかったのです。
でもそれは杞憂でした。

なぜか。
全然違う代物だったからである。結果的に町田康という作家の唯一性を再度確認できて、そういう意味で映画みてよかったなあ、と思う。
映画は映画で面白かったのだが、自分が町田康に強烈に惹かれるのは、極端に思念的な思弁的な点にある。この点が映画の決まった尺と視覚に頼ることの多い性質ゆえか、活かしきれていないように思えた。
町田の物語では登場人物が思考実験ともいえる思索や思い込みにやたらとふけり、また時折、町田自身がメタ的に割り込んでくる。がために一文の息継ぎがやたら多く、人によっては冗長・くどいとみなされ、結果として「タデ食う虫も好きずき」みたいな文体になる。
そのタデを好む虫たちが町田のファンなのであり、その活字の雄弁性こそファンが町田作品に期待するところでもある。

例えば。
はじめの方の内藤と大浦の関係をなんとなく説明するふたりの回想部分があるが、不言実行の是非について町田が論を展開する際に「不言実行できないお父さん」のセリフがあるが、これはけっこう面白い。電車に乗りながら読むと困るくらいに面白い。
いや、けっこうではなくかなり面白いのだが、映画の事情なのか大人の事情なのか、映画では全カットされている。由々しき事態であり、悲しき事態であった。

また、また内藤と大浦の話だが、屁高村に猿まわ奉行として派遣された大浦のもとに藩主黒和直仁が家来一同ひきつれて訪問する場面がある。
ここで内藤と大浦が夜にふたりきりで話をし、ある意味の和解をするが、本ではセンチでナイーブな込み入った話の直後に、「という会話をふたりはしなかった」的な町田の文言が入って、実際にはありきたりな会話のみがされたようになっている。
映画ではセンチでナイーブな話を実際にし、ある意味の和解をする流れになっていた。
「という会話をしなかった」という町田の仕組んだ思念・思弁があってこそ、内藤と大浦の因果で切ない、どうしようもない関係性がとがるのに。と思う。
これまた映画の事情か大人の事情なのか。

 

登場人物の細かなところも原作とは異なっていた。
掛十之進の苗字は「かかり」が「かけ」になっている。
オサムを一番に懐かせるのが幕暮で、そもそも菅原がでてこない。
オサムの年齢が35ではなく25になっている。若い。35ではなく25で死なせることに、10歳若く死なせることに、何か意味があるのだろうか。あるような気もするが、それは今言語化できない。
それから、掛と内藤のはじめのやり取りがないのが残念だった。掛と内藤の人間がどんなもんか強く感じられる場面だけに、それがないのが無念。
猿の頭部を被った半猿半人が出てこなかったのも惜しい。
すべて、映画の事情と大人の事情なのか。

文句ばかりになってしまったが、これはいいなと思ったのは、茶山の最後だ。
真っ白な壁に囲まれて見えるものは青空のみ。天から刃物が振り下ろされ、茶山の表情のアップで終わるシーン。この映像はとてもきれいで、これを見るためだけにまた観たいと思った。忘れにくい空とシーンである。
今思うと青空がこの映画のキーなのか、最後の最後にろんが空を吹くシーンもよかった。活字では「嘘」となっていたのが「フィクション」に替わっていたのも、これはこれでしっくりくると思う。
町田康と空、についていえば「苦しいことから私は逃げた」という曲で歌われる空がとても印象的である。
こうして町田と空とを考えると、なんだか「きれぎれ」も思い起こされてくる。なんだかんだで町田康の味がする映画なのかもしれない。

 

まあなにか色々あったけど、思うことや発見があり、総じて観てよかった。券をくれた人には多大なる感謝。中元を贈ろうと思う。ハム。
そしてやっぱり、町田は活字だ。