相毎モコ

400字で書くことを心がけ

読んだ 銃・病原菌・鉄

こんなことをいうと世の中の父親母親に刺されるかもしれないが、子供は親を選んではでてこない。子供からすればどの時期にどんな親の元に生まれるか、決められない。
人種や性格、身体的特徴といった属性をとっぱらってひとつの生命体の出現として考えると、完全にランダムである。私が日本人として、インド人がインド人として、ドイツ人がドイツ人として、アボリジニアボリジニとして生まれるべき理由はなかった。
そこにあるのはくじ引きのようなもので、ただの、そして看過し難い偶然である。

この偶然のためにある人は富み、ある人は貧しく、生きたり死んだりしてきた。何万年も昔から。

「銃・病原菌・鉄」という本は、人々が偶然生まれついた様々な環境の違いこそが、今日世界のあらゆる差異を生み出した事を導き出す。
生来的に白人が優れていて、有色人種が劣っているわけではない。北半球の人間はセンスと知性を持って生まれたから食料を生産し詩を紡ぎ様々な発明をしたわけでもなく、南半球の人間はもともと野暮でアホだからガスも電気もなく原始的な狩猟採集生活を続けてきたわけでもない。
在るのはただ幾重にも折り重なった環境の違いであって、人種間の潜在的能力の違いではなかった。

著者がニューギニアのとある若者から受けた問いを起点として、この事実が明かされていく。

 

読みおえて思う事は、緯度経度の恐ろしさと、日々何かに追われているけれども今ここでこうして何不自由なく平穏無事にへらへらして生きている、ただ生きていることの不思議さである。
今が揺らぎ、おセンチなことに弱った今が愛しく思えてくる。
文字が読め、買ってきたにんにくを専用器具でおろし、明日の心配をし、遠い誰かを思い浮かべ、窓が少し開いて夜風がさらり吹き込んでくる今の存在が偶然なのだとしたら、何が起こったとしてもおかしくない気がしてくる。
平凡も猛暑も悪徳も発明も正義も面罵も安堵も特殊も情事も流血も幸甚も迷妄も馬鹿も満月も小麦も放屁も清酒も継承も憎悪も楽観も轢死も契約も油蝉も煙草も破産も函館も嫉妬も仏閣も彼奴も老舗も勅書も家畜も専務も愛欲も電気も糸瓜もなにもかも、必然と思えるものをたぐっていくとあるのは偶然で、そう思うと偶然の帰結の今をかみしめたい。
かみしめようと思っていたら猫が寄ってきたので猫と遊ぶことにした。猫とたわむれる今。猫は興奮のあまり忘我、じゃらしを持っていた私の右手を爪でもって切り裂き、右手からは鮮血。今の鮮血、愛しい鮮血。今の鳴き声。