相毎モコ

400字で書くことを心がけ

はまることなかれ

会社というところでは、「君は近いうち何をしたいんだね」「そうっすねー、お遍路あるいは稲刈りとか、そんなんですかねー」「いや、私生活もいいがここは会社だ、そして職場だ。この組織の中でしたいことはあるのかね、ということを私は聞きたいんだがね」「あっ、ああっ、……そういうことなら、クレープですかね、新規事業の。そういう新しいことが興味あるかなあ、というか」「ほう。クレープ。君の今の仕事はビール瓶のフタ周囲にあるギザギザを成形する機械の整備だが、次はクレープ。まったくの畑違いだ。それでもやってみたいというのかね」「ええ、前から焼きたいと思ってたんですよ。クレープ。」みたいな問答をさせられる機会がたまにある。

面談、と称して個人の希望を聞いて欲求を満たしたり配置換えの示唆を行っているものだが、今日あったこの面談で自分は「お前は宗教にはまりそうだから色々な人の意見を素直に聞いて生きていけ」と言われた。

この言葉にどう対応すればよいのか、わからずに眠れぬ。

上司のコメントに従って宗教にはまらないように、素直に人の話に耳を傾けていこう。たとえばそんな風に素直に生きていくとする。おそらくこの先、色々な人に会い、様々な話を聞くだろう。おっさん、幼児、警察官、キャバクラ嬢クリーニング屋の婆、ファミレスの店長、ニート、浪人生、漁師、なんたらNGOの理事長、人妻、かんたら商事の財務担当、ブリーダー、ヴィーガン、曲芸師、鷹匠、インド人など、多岐にわたる。中には話を交わす人物もあるだろう。そして、その話を素直に聞き、カンドー、その教え・意思を胸にそれなりになって、「私に影響を与えたのは、フィナンシャルプランナーの加斗脇さんです」みたいなことを誰に言うともなく言う日が来るかもしれない。

しかし、ここで看過してはならないことがある。
このフィナンシャルプランナーの加斗脇さんに当る人物が、新興宗教ラリルの教祖・天カ嶺仁上(あまがみねじんしょう)などという人物であったとしてもおかしくないということだ。
色々な人の意見を素直に、まずは聞き入れようとする心が大切なのだから、きっと「こいつあぶないんちゃうん」と変な関西の方言で思っても天カ嶺仁上の話を聞いてしまうだろう。天カ嶺仁上は新興宗教の教祖になるくらいだから人を惹き付けるなにか、その気にさせる話術くらいは会得しているに違いない。結果、自分は人の話を素直に聞いたばかりに、新興宗教ラリルの信徒として蛙を2000匹も飼育したり、電波浄化煉獄隊の一員になったりするだろう。

とすれば、やたらと人の話を素直に聞く、という危険な行いは忌避すべきであり、連休中は6畳間で江戸川乱歩の全集を読み続ける、屋外レジャーとしては川の鴨を眺める、買い物は無人レジで無言に済ます、病気にかかって医者などにかからぬよう体を鍛える、などに励み、人の差し伸べる誘惑に駆られず、群れからはぐれた類人猿のように生きた方がよいのではないか。
でも、そんな人生がいいものかどうか聞かれると、それはどうだろうねえ。と答えてしまうだろう。

そういうわけで、人の話は素直に聞くようにすべきかどうか、分からずに寝られずに時計を見れば一時。


そういえば、宗教にはまるなどと言うが、なぜ「はまる」のはたいてい新興宗教なのだろう。
「いやあ、私さいきん、仏教にはまりましてねえ、それからというもの毎日がハッピーのラッキーでして、大日如来の像も別注しちゃいまして、まあ」とか
「ちょっと、聞きました?部長、ユダヤ教にはまっちゃったそうじゃないですかあ?ハヌカ?っていうお祭り?みたいな?」
などといったコメントをふだん聞かないことからも、古くからある教え・ある程度メジャーな宗教については「はまる」という表現をしない気がする。

「はまる」という言葉にはなにかしらブーム・流行りを思わせる一過性、移り気、軽佻浮薄の響きがある。怪しげな、それでいて歴史の重みがない新興宗教には「はまる」がドンピシャだ。
みたいな理由によるのだろうか。
しかし、「歴史にはまる」ということは聞く。時間の蓄積は「はまる」ことと関係がないのか。
新興宗教と「はまる」の関係は謎のまま、脳みそが混雑したまま、眠ろうと努力。1:10。