相毎モコ

400字で書くことを心がけ

炊飯器をとりまく地球という惑星に感謝した1日

まま、ま、ままままママまま、ママまままじで感動した。うるる、うるる。

 

というのは、まぎれもなく炊飯器のことなんですよね。私はあほなので炊飯器のフタを開けっ放しにしてしまう性癖があるのですが、その性癖が昨日も露出しちゃいまして。

案の定、米たちはカピカピに相成りました。悲しいです、哀しいです、そんなカピカピの米らを見るのは。

米を食べられない。その気持ちもあるにはあるけれども、もっと悲痛なのは、米らの役割がなくなってしまうことね。米らの役割としては、人間中心的観測で申し訳ないけど、食べられることにあるんですね、そんでそれが乾燥して食べられなくなってしまう、するとその役割が消えるんですね。それはもう、角が生えてない牡鹿とか、潮を噴かない鯨とか、数学を教えない数学教師とか、なにも聞こえないラジオとか、そういうのと同じなんですね。もういてもいなくてもおんなじ、っていうかいるだけ邪魔だからあるだけ邪魔だから、廃棄されるがよろしかろう、と判断されることでしょう。怖いことだよ、役割がなくなるというのは。

 

だから、役割がなくなった米らを目前にして私はなんとか彼らを救いたいな、食べたいなと思ったのね。

それは食欲のせいもあるけど、やっぱ、その役割を取り戻させてあげたい、その一心でね。そうさせたのは自分なんだけど。

 

それで米がどうしたらもとの炊かれた状態に戻るのか、それを考えた。私は文系畑の出なので、この世のルールであるという相対性理論も分からずに生きている。その他にも分からないことだらけだが、米の炊かれ理論もまた分からないことで、炊飯器の中で何がどうなって米らがもちもちになるのか、それはわたしにとって宇宙の謎に匹敵する。

だから、考えたところで無駄だなあ、と散文的に笑って、とりあえず、なんつって水を適当に入れてふたをして保温と書かれた釦を押した。

 

4時間後。感動の光景が炊飯器の内側に広がっていたのである。

カピカピに乾燥しては見る者を不安と絶望の底に突き落とす形態をしていた米らは、すっかり改心してフワフワなライスに戻っていた。

まだクリスマスは先なのに、キリストが帰ってきたのか僕らの街に。そんな感じの奇跡の感があった。

うおおおっ。うおおおっ。

この嬉みを誰かに伝えたい、そう思ってなぜか叔父に一部始終を文章と写真を駆使してLINEした。

すると、「ビフォーアフターかい!」と返ってきた。ビフォーの写真は送ってないのに。

何はともあれ、慶賀すべき事態である。炊飯器の偉大さ、米の偉大さ、水の偉大さに気づけたのだから。もっと掘り下げて、そもそも炊飯器を作ったメーカーの人やその生活の労苦、製造工場のパートのおっさんおばさんの喜怒哀楽、米を作るファーマーと稲叢になびく秋風、水を保ち循環させてくれる地球など、そういう森羅万象に感謝の念を禁じ得ない。今日はそういう、慶賀すべき1日であったのです。

KANDO!