相毎モコ

400字で書くことを心がけ

驚きのネコ しおり番長

猫が好きなものといえば魚、ねこじゃらし、マタタビと相場が決まっているが、一番好きなのは本のしおりとして付いているひもであると最近は思う、よく。
本を読んでいると、やたら爪でもって攻撃してくるなあ、俺そんなに悪いことしただろうか、と思う時が必ず訪れる。しかし猫がひっかいているのは自分ではなく、そういう時のターゲットはたいていしおりのひもだ。爪でボロボロにし、歯にもっていってギタギタになるひも。おかげでひもはえらく短くなり、はさんでも冊子下部からひょろっ、と出なくなってしまう。なので、スムーズに読みさしの本を読むことができずに、ちまちまとした作業が増え、自然、フラストレーションが溜まり、とはいえ相手は猫、人語を解しない野獣であるから私はもはや何もできぬ。精々、「しおりを噛むのはおやめ」と優しく諭すしかないが、そんなことをしてもなににもならぬ。なぜなににもならぬかといえば、この対立構造が人対猫、で会話が成立しないからだ。

ならばどうすればいいか。片方がもう片方に合わせるしかないだろう、これはもう。人対人、あるいは猫対猫のような対立構造になればいいのである、多分。そういえば番長はよく河原とかで決闘をするが、毎回相手は近所の学校の番長である。パンチにパンチで返すこの番長コミュニケーションは最終的に和解におよぶ。この場合、番長対番長だからこそそこになにかしら相通ずるものがあって、番長対相手の子分あるいは校長先生なんかだとやはりどこか分かり合えない、番長同士だからこそ最後には草原を背にして笑うことになるのだ。しかもいつのまにやら背景は夕景となり、物陰から見ていた子分たちが「ややっ、なんで仲良くなってるんですかねえ?」的な台詞を言って、番長たちの顔アップか夕景にカラスが飛ぶシーンで終わる、たいてい。
なんの話をしていたのか。そう、猫対人はだめなので、人対人あるいは猫対猫の構造になればよい、というその話。しかし問題があって、人対人の構図は望めないだろうね、ということだ。猫からは人になってみよう、という気持ちが微塵も感じられないのである。となると我々に残された道はひとつしかなく、猫対猫の構図を人から作り出していかねばならない。こういう風に相手に道を譲る、自己犠牲の精神という気高さを猫には見ていてほしい、あと神様とか。そんなわけで猫になろうと思って、どうしたらいいのか、とりあえず諸手を床につけ四つ足歩行になった。目線を相手の高さに合わせることで訴求力向上を狙うのは、大人が子供に言い聞かせるのを見てもその効果が期待できる。しかし、このままでは格好的にただの猿人だというので、猫らしさを出すために猫声を出す。大人がベビーカーの隣にしゃがんで幼児めいた言葉を発することで赤子が微笑むのを見ても、やはり共感性の向上に期待できる。そうして今や気分はすっかり猫、少し大きな猫そのものと言っても言い過ぎではない。さあ、これで猫対猫の構図が整った、本のひもの有用性と短くなったそれの無用性について話し合おう、猫よ。

と、その時!(ひと昔前の世界まる見えテレビ特捜部!でのレスキュー911というコーナーのナレーター風)なにを思ったのか、猫は話し合おうともせず、戦闘態勢っぽい感じになりそのまま獲物を狩る仕草でパンチしてきたのである。
あくまで拳で会話をしようというのか。人間の世界に番長という生き物は絶滅してしまったらしいが、猫世界にはいまもこうして番長制度が息づいている。
そして本のしおりは今日も短くなっていく。押忍!!