相毎モコ

400字で書くことを心がけ

パラドックスなさかなたち

川を眺めていると魚がぱしゃりと跳ねることがあるけれども、これについて魚に言いたいことがある。君は莫迦なの? それとも馬鹿なの? 要するにバカなの? ということがそれだ。
跳ねるとどうなるかというと、地上にいる僕にも見えるわけです。水面下にいたら、そうは見えないのに。
ということは、魚を捕食する鳥なんかもこれ、見えているわけで、あ、でも、っていうか、聞くところによると鳥のやつらは偏光レンズなるズンレをその眼に備えているらしいから、跳ねなくても魚の存在に気づいているかもしれず、困ったことになった。
自分は今、「跳ねなければ鳥に見つからずに余生を送れただろうに、悲しいやつだ」といった論旨にしようと企んでいたのだが、頓挫してしまいそうだ、偏光レンズによって。
どうしたらいいのだ、私は。

とまれ、捕食者つうか敵は別に鳥だけではない、人間もまた魚の敵である。ぱしゃりと跳ねた魚を見て、嗚呼、この辺りには魚がいるな、と思って釣り糸を垂らすおっさんなどが出現するに違いない。catch&releaseしてくれるならいいのだが、釣り上げた途端に魚への興味を失い、傍らに捨て置くおっさんもいるのだ。
そうするとやはり、魚は無為に跳ねることによって自らの命を危険に晒している、つまり生命体として莫迦なやつだ、ということができる。
思っていた論旨に近づくことができてよかった。

かどうかは実はまだよく分かっていない。もしこのスーサイドが鯉によるものだったとしたら? もとい、故意によるものだったとしたら、そこに私は自己犠牲の美を見出さなければならない。
本当にそういう話があったのかは不明だが、手塚治虫が描いたブッダの漫画に、アシタ様という偉い人がある話をする。
アシタ様いわく、人に狩られる兎や魚は自ら進んで狩られているのだ、ということなのだ。なぜにというと、自分が生きたいからといって生命にしがみつく、捕食者に捕らわれないようにすることは、ひいては自分たちの種族の首をしめることになる。自分たちの種族の頭数が増え続けてもなかなか減らないとすると、それぞれの住む場所や食べ物が不足するようになって、種族として持続することが難しくなるからだ。
だから、兎や魚は積極的に人間に狩られることで、適正な頭数を常に保っているのである。

この話のとおりだとすると、跳ねる魚たちは間引きされるために、それぞれの種族を保つため逆説的に命を差し出そうとしているのではないだろうか。
エゴという概念を作り出しては自己嫌悪の甘美に酔っているホモ・サピエンスには、到底できそうもない行為であると思われる。