相毎モコ

400字で書くことを心がけ

明日17時 歯医者屋

人間、結局、ひとりなのよ。みんなひとりなのよ、結局はね。
みたいなことを言う人があるが、確かに僕らはみんなひとりで、というのは自分の感覚や価値観で知覚することを許される空間というのが自分ひとりというよくわからないようでわかるような、でもやっぱ変ですよみたいなスペースに限定されているからで、いろんなものをシェアしていこうぜ仲良くやっていこうぜだって俺ら仲間じゃん絆じゃん、みたいなものはやっぱ嘘っすよ。人間やっぱシェアなんてできない存在ですよ、と強く思うのはなんといっても歯医者屋においてである。

歯医者屋がなぜシェアをさせないかといえば、歯医者屋の逃れられぬ宿業というか、とにかくそこに痛みがあるからだ。というと別に歯に限ったことではない、他の病院でも痛い思いはするじゃないですか、あんた言ってることおかしいよ、と主張する人もいると思う。だが、歯医者屋は特別ですよ。例えばインフルエンザになって注射されるとする。痛いね、注射は。確かに痛い、下手すると泣かずにおれぬ。しかしだね、注射は痛みの瞬間が見えるのですね、針が内部に侵入する様を観察し、備えができるというか「ああ、今私は針を刺されているのだね、細い針を。当たり前だね、痛いのは」と痛みの経路や根拠が明らかになるので安心できる。安心の土台の上に注射の痛みはある。

ところが、歯医者屋はそうは問屋がおろさない、そこがポイントだね。なんでそうは、と言ったら問屋が卸さないんだろうね。問屋はまあどうでもいいんだが、歯医者屋の恐ろしいのは、何も見えないところで、自分の口の中で何が繰り広げられているのかまったく不明なんである。背中と同じで、顔やそこにある口といった部位は自分で直接見ることがけして許されていないのである。まったくなぜこんな不便で不安な感じに進化してしまったのか。人間というのは。ただでさえどんな状況なのか確認できぬというのに、不安に拍車をかけるように最近の歯医者屋は視界を遮るタオルじみたものをかけてくる。何を考えているのか。患者の顔が邪魔なのか。顎からみる人間の顔は大抵不細工なものだが、なるべく不細工なものは見ないでいたい、という歯医者および歯科衛生士の要望によるものなのか。だとしたらなんかすいません。

と、そんな感じで痛みが先鋭化するのが歯医者屋という場所である。
歯医者屋の椅子にすわり、治療を受けている時、とてつもない自責の念にかられる。歯が悪くなったのはどう考えても自分のせいで、誰にも押しつけることができない。これが歯医者屋でシェアができぬ原因である。
痛みが自分へ還元される。自業自得、という熟語をもっとも感じる歯の治療。もうなにを言いたいのかわからなくなってしまったが、自分で蒔いた種なのだからシェアできないのは当たり前なんですわ。でも、痛みというのは身体的なものであれ精神的なものであれ、シェアできねえです。うらさびしいことです。
だから、他人のことで涙を流したり本気で感じ入れる、勘違いでも感情移入できる人というのは、徳の高い人だと畏れ入るしかないですね。それってどうなんですかね、割と普通のことなんですかね。みんななにをシェアしてるんですかね。

 

と借り部屋をシェアしている猫に問いかけても返ってくる返事は猫語。