相毎モコ

400字で書くことを心がけ

猫による日本人マゾヒズム

猫と犬。あるいは犬と猫。
とっても身近な動物として確固たるイメージがある彼ら彼女ら。時に犬派猫派という二択を迫られるほど人間に親しんだ存在で、犬派でも猫派でもないイグアナ派、モルモット派、グッピー派などは一体なんと答えるのか気になるが、とにかく犬派と猫派はそれぞれのブランドを確立しているだけあってしばしば対立する。

この論争は幾度となく見聞してきたが、結局は犬派は犬の性質が好きで猫派は猫の性質が好きで、ついには話に決着がつかない。犬と猫の間には確固たる違いが存在する。

叱ったときなんかはその違いが顕著だ。
犬を叱った場合、めちゃくちゃ反省してそうで、ちょっといじけちゃいました…?と心配したくなるくらい落ち込んだ感じになる。クーン、とか言って。
そこへいくと猫は真逆で、僕そんな悪いことしました?正味、心外ですわ。みたいな全く悪びれないスタンスでくる。そして、いち抜けたと言わんばかりにぷいっと何処ぞへ去ってしまう。
犬派は猫の「心外っすわ、いち抜けた」が気に入らなく、猫派は犬のナイーブが気に食わないのだろうと思う。
とすると、犬派は支配的性向の持ち主でサディスト、猫派は被支配性向でマゾヒストということがいえるのではないか。被支配層とはつまり従者である。猫を飼うことは猫に仕えることだ、的なことを町田康も言っている。

以上のことから昨今の猫ブームを考えると、これはもしや巷間ではマゾヒストの増殖が著しいということなのではないだろうか。

猫カフェがタケノコのように乱立していくことからも、このマゾヒスト増殖説は支持できるかもしれない。
猫カフェ=猫による人のための癒やし、みたいなイメージがある気がするが、これは実は逆で、猫はただみゃあみゃあ言って好き勝手やっているだけだが、人は猫カフェ代を払いおやつ代までオプションで身腹を切る。この行為は奉仕、従属以外の何ものであろう。日本人は着実にマゾヒスト化していっている。

また、日本人のマゾヒズムはグローバリゼーションにも現れている。
たとえば、日本人が海外に渡航したとして、現地で日本語で押し切ろうとする人がどれほどいるだろうか。ほとんどの人は英語ないし現地で話されている母語なりを意識して、なにかしら準備するのではないか。日本にくる海外観光客はこの点、強気だ。多少日本語を話そうと努力する人もいるにはいるが、大半が英語なり中国語なりで当然のようにコミュニケートしてくる。甚だしきに至っては、こいつ話通じねえ、みたいな態度でくる輩もいる。
そして、日本人は申し訳ない感じになってしまうのがおちだ。

そこでこうした申し訳ない感じ、情けない感じを少しでも薄めるべく、今や日本津々浦々の主要都市には英語、中国語、ハングル、アラビア語が溢れるようになった。
受け入れることを、よしとする風潮。

そうなると、日本人のマゾヒズムの起源は日本書紀神道にあるのではないか、と思われる。
日本書紀にはたくさんの神様が出てくる。一応出てきた順や権威の序列はある感じだが、原則として多神教で、多神教は他を受容しなければ成り立たない。受容。これが日本人のマゾヒズムの核なのではないか。
とすると、英語圏の人らが英語でずいずいくるのも頷ける。英語圏は、詳しくは知らんが、ほとんどがキリスト教であると思われ、キリスト教に受容はない。というのもキリスト教が原則として一神教で、それ以外の神の存在を断固認めないからだ。だから、英語圏の人は往年の宣教師のごとく、英語に絶対的なものを信じ、英語で押し切るんじゃないかねえ。

マゾヒズムは日本人の核であり、根源である。
とすると、昨今の猫ブームは日本人がより日本人たりえている、そのプロセスなのではないだろうか。


ということを猫に話したとして、猫は「何言ってんだ、こいつ」的な目でじっとみてくるだけだろう。
しかし、実にそこがとてもめちゃ良い。
ビバ・マゾヒズム。ビバ・日本人。